2003.2.28 【迷彩柄】
偏屈者といわれてどこか嬉しいような気がする。
年をとるにつれてそういう偏屈さを具体化するようなものが現れると得意になってくる。
今日は迷彩柄が嫌いというお話。
迷彩柄を嫌う理由は,軍事的な由来が一番である。しかしその以前に「身を隠そう」という姿勢,あわよくば敵から身を守ろうとする部分が,僕の最も嫌う理由である。しかもあの鈍い色・中途半端な形
。ああやだ,不潔,だいっきらい!
酔っぱらって,迷彩柄の服を着た女の人にいちゃもんをつけたこともある。
「あなた,そんな柄を着てて恥ずかしくないの」
「そんなにも世の中から身を隠そうとしたいのか!この卑怯者!」
単に好きで着ている人にとっては迷惑な話である。
でも酔っているからしょうがない。いや迷彩柄を着ている方が悪いのだ。
2003.2.1 【ドラピエとオペラ】
ドラピエとは,ドラクエ(ドラゴンクエスト)のような略語ではなく,れっきとしたシャンパンの名前だ。
最近キッコーマンが輸入を始め,日本に紹介されてまだまもない。
DRAPPIER
実はこのページで,マンズワインの「マン」はキッコーマンの「マン」であることを初めて知った。
こんなことを知らなかったなんてちょっと恥ずかしい。クイズミリオネアの問題に出たら恥をかくところだった。
それよりここで気になるのが,
『パバロッティがこのシャンパンでうがいをしている』という部分。
ドラピエ家の人が喜んでいるかどうかはしらないけど,とにかくパバロッティがそんなことしているという。
パバロッティといえば言わずと知れた3大テノール。昨年その3大テノールが来日したが,情報を知るのが遅くて機会を逃してしまった。でもちょうど正月にNHK教育のテレビでやっていたので,“おとそ片手”にその歌声を聴くことができた。
僕はオペラではプッチーニの「ネッスン・ドルマ」(「誰も寝てはならぬ」「トゥーランドット」)というのが最も好きな曲だが(といっても他にあまり知らないのだが),これまでいくつか他の歌手のものを聴いているけれど,今回はそのお気に入りの曲をパバロッティの「ひげもじゃの涙付き」で聴くことができた。(多分これがパバロッティの18番なのだろうけど。よくしらない。)
まあそれにしてもあの曲はいつ聴いても涙がでてくるよい曲で,まったくブラボーである。
んで僕は正月から決意した。
今年は「オペラの年」にしよう!
「シャンパン」に続いて,オペラの『似非(えせ)賢者』になろうと…。
2003.1.25 【大リーグ養成ギブス】
たかがアニメの中の話ではあるが,なぜ巨人の星は「大リーグボール」や「大リーグ養成ギブス」の,こと“大リーグ”にこだわったのだろうか。
筋としては,一貫して「巨人」というのが目標であって,
「おまえはあの星座に駆けのぼれ。巨人軍という星座のど真ん中で、一際輝くでっかい明星となれ!」
と一徹がひつように強調しているのであれば,最初から「巨人ボール1号」や「巨人養成ギブス」にすればいいのに。
なのに「大リーグボール」と名付けたのはなぜか。
おそらく必要以上に「尊いモノ」として大リーグを「至上化」していたのではないだろうか。
実際に大リーグに試すことようなことはなかったのだから,結果的には単なるダシにしかすぎなかった。
しかしその弊害として,その後の大リーグへの進出が大きく遅れた要因だとしたら,これはかなり問題である。
最近やっと松井選手が,ヤンキースに入った。
「巨人の星」を捨て,大リーグの星(スター)へと望む形ができた。それはすばらしいことだと思う。しかしこの「巨人の星」を見切りをつけられた状況,まともにグローバルなベースボールに歩めた状況に,あまりに時間がかかりすぎてはいないか。
つまりこの巨人の星での「大リーグ」至上主義に,本当は実力も大リーグと隔てることもないのに,「および腰」になっていた弊害の一端であり,もしこの「大リーグボール」という名称でなかったら,もっと早くに「大リーグ」に目覚めていたとは考えられないか。この「大リーグ」という扱いが大きく進出を遅らした[元凶]ではなかったかと考えるのである。
でも仮に進出が早まっていたとしても,「原」「中畑」だったら,大リーグに行ける器量ではなかったと思うが。
2003.1.18 【着メロ】
着メロというやつをダウンロードしてみた。探している時間だけでも通信料がかかるみたいで,いい加減にしておいたが,不覚にもちょっと楽しかった。
選んだ曲はアース・ウインド&ファイヤーの「アフター・ラブ・イズ・ゴーン」。
ア から始まる名前の,最初に気になったミュージシャン,その最も好きな曲だったのでそれにした。
昨今カラオケでも外国の歌を歌うと顰蹙だが,着メロも同様に,外国の曲だと妙にオジンくささを感じてしまう。多分「洋楽の方がおしゃれ」という「考え方が古い」という理由からだろう。確かにそうだが,考えてみたら,世界を見ていたい,できるだけ広い視野で生きてみたいと思うのなら,やはり世界の曲を聴くことが正しく,それは大リーグで,本当の自分を試そうとする松井選手と同じグローバルな向上心からだと思う。
それはさておき,この曲(After Love Is Gone)が好きな理由はコード進行で,何かわからないが,D7sus4とか,Gmmaj7とかAmaj9とか(無論あてづっぽうだが)複雑そうなコードを,巧みにずらしこんでいるようで,知性的でかつ感覚に迫る楽曲自体の力が,演奏の力や言語を超えてとても強く感じられる。
それに比べ,申し訳ないが宇多田ヒカルの曲は,多分「Am」か「Em」あたりから始まるもので,曲の編成が短調となり,言って欲しくはないだろうが,親譲りのこぶしのない演歌のようであって(いや演歌が悪いわけではないが),若い者も所詮,面のいい「浪花節」が本質であるということが,否めようがなく感ずるのである。
2002.12.16 【久しぶりにシャンパン話題】
あんまり酒ばっかり飲んでたら,また病気になるので控えなくてはいけないのだが,好きなものはしょうがない。久しぶりにシャンパンの話だ。
この季節はシャンパンやスパークリングワインが売れる頃。これまやっていなかったフレシネ(CAVA)のコマーシャルや,一面の大きな新聞広告なんかが賑わす。でもちょっとこのシャンパン(あるいはシャンパン風)人気,タダものでないような気がする。
ここのところ日本では,空前のシャンパンブームである。事実今日の朝日新聞によると日本のシャンパンの輸入量は今年は8月末までで235万本で,前年同期より25%増らしい(世界第7位)。これは考えたらすごい数字で,これはかなりのムーブメントと言っていい。
その記事を続けると,不安な時代にこそシャンパンは人気になるという説。ゴッセ社社長のベアトリス・コアントロー女史にきいたものによると,不安な時代だこそ,より確かな価値を求める,過去の2度の世界大戦の頃もそうだったという。
マーケットに関しては,あまり知ったかぶりもできないが,いわゆる消費の2極化と言われる,ユニクロや100円ショップのような低価格のものと,一方でルイ・ヴィトンのような高額なものが売れるという特徴は,おそらくその政情不安と関係がないわけでない。
この場合あてはめてみるならば,低価格なものとしてはビールに替わる発泡酒など(僕はビール風の発泡酒は飲まないが),もう片方は高額なこのシャンパンに当てはまるのではないか。
しかしここにきてこの発泡酒の税金の値上げが決まったようだ。もともとシャンパンの税率もワインなどに比べて高い。
でも単純に考えても,この税制は消費の回転を止めようとするようなものであって,景気の回復を本当に考えているのか疑問に思えてくる。
政治の話はすると長くなるので留めておくが,さすがの僕でも,そんな税金のことを考えながら飲むシャンパンは,あまり美味しくはない。
2002.12.8 【バレエとイチロー】
まず〜〜〜〜しさに〜,まけた〜〜〜〜
昭和枯れすすきを歌ったのは「さくらと一郎」だが,今日の話題はバレエとイチローだ。
この前バレエを観てきた。有名な「ジゼル」だ。
毎回思うのことだが,バレエというのは技術が先に見えてくるようなものではよくない。回転が何回できるとか,ジャンプがものすごく高いとか,そういうところが目立つようでは,バレエの本当の価値とは言えない。比較していうなら黒人のアクロバティックなダンスやタップは,確かに派手で見応えはあるだろうけれど,バレエの押さえてでてくる技術のすごみは,もっと隠れたところにある。
立ってるまま持続するとか,小刻みな動きで移動するとか,大きな動きをしてもぴたっと止まるとか,そんなところにこそ大きな技術があって,しかも決してそれは主張するものではない。
それゆえバレエは,その卓越した技術が奥の方に引っ込みすぎて,時々とても退屈なものと感じることもある。集中して見ようとはするものの,どうしたって眠い時もある。
イチローの打撃にもそういうところがあって(いやイチローの打撃は決して退屈なものではないが),一見して派手ではないものの,まるでテニスの大きなラケットで打ってるような妙技の中に,とても修練された技術がある。それは時に,本人が嫌うところの「天才」が,まったく努力もなしに,いとも簡単にやっているかのようにも映る。
しかし単にそうでないことは皆が周知のことである。
そういえば昔「ドカベン」で殿馬(とのま)が,「秘打・白鳥の湖!」というのがあったが,それとこれとはまた別の話だ。
2002.12.3 【また車の悪口・ボルボ】
車の悪口は簡単なことだ。
買う財力がなくても,すれ違う車の批判をすることは暇つぶしになる。
「よくあんな車にのるなあ」
「大きな銭払って,馬鹿じゃないの」
直接文句言うことはできないのだが,勝手に独り言でいってる分には楽しい。
それで今日はボルボの話。
ボルボという車は一時期ちょっとエグゼクティブだった。
腕にロレックス・サブマリーナをしている好青年が,ちょっと「ものわかり」して選ぶ車だった。別に彼らのことはひがんでいるわけではないが(ほんとにひがんでないよ。ほんとに。),それでも以前のボルボの選択はまだ許せた。
それは「走るマッチ箱」といわれ,無骨ながらも他とは違うしっかりとしたオリジナリティがあったからだ。
しかし今のボルボはどうだろう。
「走る乗用車」じゃないか!
乗用車が走ってどうする!
いや乗用車が走るのは当たり前のことで,マッチ箱どこいった!マッチ箱!
ボルボが当たり前に格好よくても意味がない。
かっこのいい車は他のメーカーが作ればいいわけで,頑丈でいつまでも不格好でいたほうがボルボとして魅力的だ。
気持ちは分かるが,きれいになりたいのはビューティーコロシアムの女性だけでいい。
2002.11.9 【今のドイツデザインは悪い!(のではないか)】
最近ドイツの国民の車の満足度が,国産車を抜いて日本車がトップになった。
満足度はデザインだけではないが,確かに最近のドイツ車はデザインに魅力がない。
もちろん買う金はないけれども,今のベンツは何かで儲かって金ができても乗りたい車とは思わない。
なぜなら以前のような堂々とした風格がなくなって,1千万を超えるものにしてあまりに“普通の車”に見えるからだ。
他の日本人はどうだかしらないが,メルセデスというブランドだけで,1千万以上もする普通車に乗る必要があるのだろうか。
ドイツ国民も,自国のそのような“および腰”のデザインをわかっているのではないか。
さらに端的な例が,最近発売されたオペル・ベクトラ。
あの無難すぎる,さしさわりのないデザインは,どうだろう。
僕が思うドイツ的なデザインとは,自己のイニシアチブで引っ張っていくようなものであって,その意味でユーザーに媚びたような(以前の)日本車みたいな車づくりでは,まったく意味がない。
日本において日本車にはできないようなその部分が,一部のユーザーにとって外車に望んできたところではなかったか。
でも今は日本だって,以前のような“単なる媚びた”デザインから逸脱した動きもあるし,いくら不況とは言え「それではいけない」と(一部のメーカーの失敗からだけでなく)動こうとしている。その四苦八苦さは,涙ぐましいほどだ。
そんな中であのようなデザインの日本市場への参加は,ある意味“なめてかかっている”としか思えない。
もちろん買わないけど,もし誰かが,あの車をもしタダでくれると言っても,それをすぐに売ってマーチでも買って,箱根あたりのいい旅館でふぐ食って,八海山呑んで,温泉入って,昼寝してきたほうがましだ。
今のドイツデザイン,もう少し威力を示して欲しい。
2002.10.27 【モバイル】
やはりモバイルしてこそアバンギャルド!。
というわけで,モーツアルトの時代にピアノが最大のハイテクであったように,今日の芸術家は,ハイテクであるモバイルをおおいに活用すべきである。
さて一般的にモバイルといえば携帯電話が思い浮かべるのが普通だが,あえてそれに「PHS+PDA」で立ち向かおうというのが僕の姿勢だ。
確かに現在の携帯電話端末は優れている。コンパクトさには勝ち目はない。しかし「PHS+PDA」には下のような利点がある。
1)なんといってもPHSは通信料が安い(画家は貧乏)
2)PDAは表計算ができる。(最近の画家は計算が必要)
3)PDAは手書きに即効性がある。(電子クロッキー帳だ)
4)PDAはフルサイズのHPが見られる。(i-modeサイトだけではない)
5)PDAはちょっと重い(筋力が鍛えられる)
6)PDAは小さくて細かい(細密描写の訓練になる)
硬派な画家は携帯よりも「PHS+PDA」を選ぶ。
2002.10.10 【ちょ〜】
「ちょ〜○○」というのは,若者(もう自分がそう言われなくなったから,あえて若者というが)よく使っているが,これはかなり昔からあるように思える。僕が記憶するに中学生の頃だから,かれこれ20数年以上前からある。
[より以上に超えたもの][超越したすごい]意味であるが,えてして若者は単純な「すごいという推量」に憧れるもので,あるボキャブラリーの中からの精一杯なのだろう。
年をとると「すごい」ということより,何かクオリティに関わるものを探そうとする。単純に「すごい」というニュアンスの言葉はあまり使わなくなる。
いやむしろ「すごい」という言葉など,簡単に使ってやるものかとも思ったりする。
その意味で,これはやっぱり若者しか使われにくいのであって,意外にスタンダードなものとして永久に残り続ける言葉なのかもしれない。
でも問題なのは,「ちょ〜」が「超」でない時,そんなにすごいものではないのに使う時,それは安くないのに「激安」と掲げて腹の立つ店のような,その言葉の“不毛”を感じることである。しかしもっと考えてみたら,意味のない接頭語をつけた言葉は,それは“トマソン”的な「無意味の冠を着せた言葉」であって,無意味を着飾る超芸術になり,これはまた別の考え深いものになりうる。
そういえば超芸術も「ちょ〜」がつくけど,とっくに赤瀬川原平さんもこんなこと言ってたっけかな。
2002.10.10 【臼井その後】
先日臼井君に電話をかけたら,この前の眼底骨折は,手術をしないで乗り越えたらしい。
手術はかなりリスクが伴うので,1週間の間薬物治療によって,ある程度まで回復できたそうだ。完全には無理だが(多少揺れる),またボクシングができるところまではいけそうらしい。
なにより。
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